JOURNAL

Bill Thelen|On Drawing and Community
JOURNAL #22
DATE : Jul 29, 2026
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JOURNAL #22 Jul 29, 2026

Bill Thelen|On Drawing and Community

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アメリカ・ノースカロライナ州ローリーを拠点に活動するアーティスト・ビル・セレン(Bill Thelen、以下ビル)。30年以上にわたり運営を続けるアーティストランスペース『Lump Gallery』をはじめ、ドローイングを軸としたコミュニティプロジェクト『Drawing Room』など、その活動は作品制作にとどまらず、人と人をつなぐ場づくりへと広がっています。 今回、「Pilgrim Surf+Supply TOKYO」で開催される個展『RISE UP』にあわせて、ビルにインタビューを実施。幼少期の原体験から、『Lump Gallery』設立の背景、影響を受けたアーティスト、そして『RISE UP』に込めた思いまで、ビルの活動の根底にある考えについて話を聞きました。

Interview&Text:Anna Tomita

1970年のビル

1970年のビル




ー幼い頃、視覚的に自分を表現した最初の記憶には、どのようなものがありますか?

子どもの頃は、とにかくずっと絵を描いていました。兄はとても絵が上手かったのですが、僕が夢中になっていたのは、スポーツチームのマスコットやチームカラーでした。スポーツそのものというより、そのビジュアル・アイデンティティに惹かれていたんです。

それが、おそらく僕にとって最初の"色"との出会いだったと思います。チームがどのように色を組み合わせているのか、とても興味がありました。たとえば、『グリーンベイ・パッカーズ』のダークグリーンとゴールドの組み合わせのように。

小学3年生か4年生の頃には、自分たちの地区にある高校のマスコットばかり描いていました。年鑑で見つけては手で描き写し、自分で色を塗る。気づけば、寝室の壁一面がそれで埋め尽くされていました。

振り返ると、僕は色とイラストレーション、そしてグラフィック・アイデンティティの組み合わせに惹かれていたのだと思います。当時のマスコットは手描きのものも多く、それを模写しながら絵の描き方を覚えていきました。いちばん好きだったのは、『バーリントン・デーモンズ』でした。黒とオレンジの組み合わせが、当時の僕にはものすごくクールに見えたんです。

父はコーチであり体育教師でもあり、兄はレスリングをしていたので、スポーツの現場にいる時間がとても長かった。でも、みんなが試合に集中しているあいだ、僕はサイドラインに座って絵を描いていました。スポーツそのものよりも、その周囲にある視覚的なもののすべてが好きだったんです。

ー自分はアーティストとして生きていきたい、と意識したのはいつ頃でしたか?

それは難しい質問ですね。

僕たちの美術の先生は、アーティストについて話したり、現代美術を見せたりすることはほとんどありませんでした。でも今思うと、それはよかったのかもしれません。誰かの影響を追うのではなく、自分自身の技術を育てることに集中できたからです。

正直に言うと、自分がアーティストとしてやっていけるとは思っていませんでした。自分の技術には限界があると感じていましたし、アートはただ、自分がやっていることでした。そして今でも、その感覚はあまり変わっていません。

自分はアーティストなのか。その問いには今でも葛藤があります。

僕はこれまで、展覧会をキュレーションし、30年にわたって『Lump Gallery』を運営してきました。でも、それは時に自分自身の制作から距離を生むことでもありました。だから今でも、初対面の人に「僕はアーティストです」と自己紹介することはほとんどないと思います。「教えています」「キュレーションをしています」と話すでしょう。

"アーティスト"という言葉には、僕にとって大きな重みがあります。育った環境では、両親も周りの多くの人たちも、「アートで生計を立てられないなら、本当のアーティストではない」と考えていました。

だからある時から、別の考えにたどり着いたんです。

必ずしも従来の意味でのアーティストになりたいわけではない。ただ、自分がやっていることを一生続けていきたいのだと。

できるだけ作品を純粋なままにしておきたかった。売上や商業性によって、自分が作るものを決められたくなかったんです。家賃を払うためだけに何かを作る、ということはしたくありませんでした。だから僕は、アートと並走しながら生きる別の方法を見つけたんです。

その考え方は、大学時代に始まったものです。僕のバックグラウンドは、実は映画とビデオにあります。BFA(Bachelor of Fine Arts/美術学士課程)では、実験的で非物語的な映画や映像を学んでいました。美術学部のプログラムではありましたが、絵画やドローイング、彫刻といった伝統的な分野を中心とするものではなかったんです。

そこでの制作は、何かを売るためのものではありませんでした。映画や映像をつくり、いつか上映や展覧会で発表できたらいい。商業性よりも、探求そのものに価値が置かれていたんです。

その後、MFA(Master of Fine Arts/美術学修士)を取得し、美術を教えながら、何十年にもわたってギャラリーを運営してきました。それでも、"アーティスト"という肩書きとの関係は今も複雑です。

心の奥では、自分がアーティストであることはわかっています。僕はとてもアートを中心にした人生を生きている。でも多くの人にとって、アーティストであることは商業的な成功と結びついている。僕は、その基準によって自分の活動を定義されたくなかったんです。

Zine:1995年、Raleigh, NC
内容は、エロスや同性恋愛を面白おかしく表現したアートやストーリー。Supremeがまだ始まる前、このZineをブランド化して、色々なノベルティーを作った。

ー1990年代半ば、あなたは若手アーティストのためのギャラリーを開きました。『Lump Gallery』について教えてください。

サンフランシスコからローリーに移ったのは、パートナーがローリー出身で、そこで博士課程に進むことになったからです。引っ越す前は、サンフランシスコのオルタナティブなアートスペースや非営利団体でインターンをしたり、働いたりしていました。もともとは映画と映像のシーンに関わりたくてサンフランシスコへ行ったのですが、着いてすぐに別の道へ進むことになったんです。

当時は、バリー・マギー(Barry McGee)やマーガレット・キルガレン(Margaret Kilgallen)、クリス・ヨハンソン(Chris Johanson)たちの周辺で、とても刺激的なシーンが生まれていました。僕はストリートをベースにした表現に強く惹かれて、そのカルチャーにどっぷり浸かっていったんです。自分でもタグを書いていましたし、アーティストが自分たちで作り上げたスペースやオルタナティブなギャラリーからも大きな影響を受けていました。

ローリーへ移ったとき、「ここで自分は何をするのだろう」と考えました。最初はスタジオを探そうと思っていたんですが、パートナーが価格の大きく下がった建物を見つけたんです。もし僕がその建物を管理するなら、実質的に無料でスタジオを持てるかもしれない。アーティストはいつだってお金がないですから、それは大きなチャンスでした。建物は約4万ドルで、住宅ローンは月に400ドルほど。しかも広い余剰スペースがあったので、「ここで展覧会を始めてもいいかもしれない」と思ったんです。

サンフランシスコではすでに、自宅のリビングルームで非公式な展覧会を企画していました。尊敬するアーティストたちを招き、作品を展示してもらっていたんです。だからギャラリーを始めたのも、「ギャラリストになろう」という壮大な計画があったわけではありませんでした。ただ、アーティストたちのそばにいたかった。

ローリーでは知り合いも少なく、少し孤独でもありました。だからアーティストを招いて展覧会をつくり、一緒に時間を過ごすようになったんです。作品を売ることは、それほど重要ではありませんでした。大切だったのはコミュニティであり、意味のある時間を共有することだったんです。

ギャラリーは、本当に自然発生的に始まりました。「ギャラリーを運営したい」と明確に思った瞬間はありません。ただ、そうなっていった。そして30年経った今も続いています。

その姿勢の多くは、僕の育った環境やパンクカルチャーから来ています。母は大恐慌の時代に育った人で、とても創意工夫に富んでいました。手元にあるもので工夫し、どんな状況でも最大限に活かすことを教えてくれたんです。

同時に、アーティストがきちんと大切にされる場所を作りたいと思っていました。

『Dischord Records』や、その周辺のDIYカルチャーからも強く影響を受けています。その哲学が『Lump Gallery』のあり方を形づくりました。商業的な成功が目的ではありません。コミュニティを築き、自分自身がアーティストとして居心地の良いと思える場所をつくることが目的でした。

アイデアはとてもシンプルでした。アーティストが来て、やりたいことを自由にやる。売るプレッシャーもない。契約書もない。この30年間、僕たちはほとんど信頼だけで運営してきたんです。

アーティストにはいつもこう伝えていました。「あなたの作品が好きです。これが鍵です。好きなようにやってください」と。

それが『Lump Gallery』の精神になりました。そしてそれは、今も変わっていません。

Lump Hoody

1998年〜2000年『Lump Hoodie』
アーティスト、アイザック・リンと"Lump"のコラボレーションアイテム。

ー『Lump Gallery』では、これまでどのようなアーティストが展示をしてきましたか?

名前を挙げたい人が本当にたくさんいます。これまでに100組以上のアーティストを迎えてきました。選ぶのはとても難しいのですが、いくつか挙げるなら、もちろん〈Pilgrim Surf+Supply〉ファウンダーのクリス・ジェンティール、それからマーク・マザーズボー(Devo)、ジェイソン・ポラン、バリー・マギー、マーク・ロビンソン(TeenBeat)、トニー・ルイス、イライジャ・バーガー、ハドソン(Feature)、ジェイソン・デ・ハーン、ウィリアム・E・ジョーンズ、シュウ・シュウ、レイ・ジョンソンとリチャード・C、ルドウィック・シュワルツ、カーステン・ストルトマン、リアン・シャプトン、シェパード・フェアリー、タミー・レイ・カーランド、そしてバーンストーマーズなどです。

ーギャラリーの名前はどのように決めたのですか?

学部を卒業したあと、サンフランシスコに移りました。その頃にはすでに、タグネーム(グラフィティで使う署名)を持ち、グラフィティ活動もしていて、特にステッカーを使った表現に夢中になっていました。サンフランシスコは、タグやグラフィティ文化がとても盛んな街で、ステッカーもスプレーペイントも、あらゆる表現が街にあふれていたんです。

僕のタグネームは"Lump Lipschitz"でした。もともとは"Lipschitz"という名前から来ています。これは〈Ralph Lauren(ラルフ ローレン)〉が今の名前に変える前に使っていた元の性です。より受け入れられやすい響きにするために変えたと知って、「じゃあ、その手放された名前を拾って使おう」と思ったんです。

サンフランシスコでは、"Lump Lipschitz"という名前でたくさん絵を描いたり、街のあちこちにステッカーを貼ったりしていました。やがて名前は"Lump"へと短くなりましたが、おそらく2000年頃までは"Lump Lipschitz"名義で活動していたと思います。

自分の本名を使うことはありませんでした。あるときギャラリーから「そろそろ本名で活動したほうがいいんじゃないか」と言われるまでは。

でも"Lump"は、もともとギャラリーの名前として考えていたものではありませんでした。本来は、自分自身のスタジオにつける名前だったんです。

ローリーに来たとき、『Lump Gallery』を、自分が取り組みたいあらゆるプロジェクトを受け止める器のような場所にしたいと思っていました。

後になって、ドイツ語では"Lump"が「乞食」や「泥棒」を意味すると人から聞いたんです。そのとき、「そうだ、完璧だ」と思いました。すべてが繋がったような気がしたんです。

響きとしてもしっくりきたし、感覚的にも正しいと思えた。そういうものに従っていけば、間違うことはないと思っています。

みんなによく「どうしてギャラリーに"Lump"なんて名前をつけたの?」と聞かれました。僕はいつもこう答えていました。

「その質問をしている時点で、もう答えは出ているんだよ」

2017年 『Team Lump Shirt by Thad Kellstadt』
ビルが大好きなコラボシャツ。
後ろには、"I'm Lumpin' it"
ちなみに、アメリカのマクドナルドのスローガンは "I'm Lovin' it"

ーあなたは「Drawing Room」というプロジェクトにも関わっています。それについて、またどのように始まったのか教えてください。

2015年頃、『Lump Gallery』は非営利団体へと移行しました。その頃、友人のジェイソン・ポラン(Jason Polan)も僕の人生において大きな存在でした。同じ年には、ジェイソンと一緒にローリーの現代美術館で『The Nothing That Is』という大規模なドローイング展をキュレーションしたんです。

ジェイソンには有名な『Taco Bell Drawing Club』がありましたが、僕たちはいつも何かしらの"クラブ"を作って遊んでいました。二人とも、アーティストであるレイ・ジョンソン(Ray Johnson)がつくっていた、『Bette Davis Club』や『Paloma Picasso Club』のような架空のクラブが大好きだったからです。

だからもしジェイソンと僕が『Wendy's』で一緒に絵を描いていたら、それはもう『Wendy's Drawing Club』になる。そんな感覚でした。

ジェイソン・ポランがデザインした『Vegan Snake Club』のTシャツ。ビルの後ろは『Drawing Room』の壁。2026年6月撮影

ジェイソンの『Taco Bell Drawing Club』は大きく広がり、今でも活動は続いています。でも『Drawing Room』では、少し違うことをしたかったんです。作品を売ることや、完成された作品を作ることを意識するのではなく、ただ人が集まって絵を描き、お互いにアイディアを出し合いながら一緒に時間を過ごせる場所にしたかった。

ジェイソンに出会うまで、僕は人前で絵を描くのがあまり好きではありませんでした。誰かに肩越しに見られるのが苦手だったんです。「絵を描いているなら、きっとすごく上手なんだろう」と思われて、実際に見せると「思っていたのと違うな」と言われたりして(笑)。

『Drawing Room』は、『Lump Gallery』とは別に、ドローイングという行為そのものに向き合うための場所をつくりたいという思いから始まりました。しばらくして、同じ名前の『Drawing Room』が全米各地にあることに気づいたんです。でも、それも悪くないなと思いました。

これは誰かの所有するものではなくて、ドローイングという行為そのものと、そこから生まれるコミュニティについてのものだからです。

今では、自分のスタジオそのものが『Drawing Room』のような場所になっています。『Lump Gallery』の奥には小さな展覧スペースもありますし、それ以前には、自宅のスタジオの壁を空けて展覧会を開いていました。これまで40回ほどやってきたと思います。

Zine 1995年

以前は『Second Sunday』という、ドローイング・サロンのようなこともやっていました。『Lump Gallery』で展示をしているアーティストに来てもらい、自分の制作、とくにドローイングについて話してもらう。そして参加者全員でテーブルを囲み、その人が出したお題をもとに絵を描くんです。

そこは、絵の上手さを競う場所ではありませんでした。誰でも参加できて、すでに描いている人も、これから始めたい人も受け入れる場所です。大切なのは、描くことを通して人とつながること。そのための場をつくりたかったんです。

2025年 〈Saddle Desperate(S.O.D.)〉という
空想のスケートブランド。
ビルがあまり描かないデジタル・ドローイング。

ー影響を受けた日本のアーティストはいますか?

『すみだ北斎美術館』を訪れて、彼が生き、制作していた場所の空気に触れられたことには、本当に圧倒されました。

日本文化からどれほど深く影響を受けてきたかについても、きちんと話すべきだと思っています。北斎という存在を知ったとき、自分の中で何かが大きく変わったんです。

多くの人は波や富士山の作品を思い浮かべるかもしれません。でも、僕にとって大きかったのは、彼の漫画でした。ものすごく大きな影響を受けています。

彼は90歳まで描き続けました。僕が見てきた中でも、最も影響力のあるドローイング作家の一人だと思っています。彼は亡くなるまで、描くことをやめなかった。

本当にあらゆることをやっていた人でした。櫛のデザインもあれば、絵手本や描き方の本もある。版画文化の中で、世界を平面的な表現として再構築した人でもあります。アートに革命を起こし、その影響は印象派の作品にも見ることができます。

彼の作品を見るたびに、新しい発見があります。90歳まで描き続け、それでもなお、その先を目指し続けた姿勢には、驚かされます。とても謙虚な人だったのではないかと思うんです。自分が何を成し遂げたかを振り返っている時間なんて、なかったのではないでしょうか。今日のアートや大衆文化に与えた影響を、彼自身はどう見ていたのだろうと考えることがあります。

僕の学生たちにはアニメや漫画のクラブがありますが、北斎のことは知らないんです。だから、いつもこう言っています。「目を覚まして。こういうことは何百年も前から行われてきたんだよ」と。

ー「Pilgrim Surf+Supply TOKYO」での今回の展示について教えてください。コンセプトがあるのでしょうか、それとも現在の作品を集めたものですか?

〈Pilgrim Surf+Supply〉と何かをするのは、今回で3回目です。以前、ウィリアムズバーグにあったギャラリー『Over Under』で展示をさせてもらったことがあるんですが、あの展示は今でもとても気に入っています。〈Pilgrim Surf+Supply〉ファウンダー・クリスはとても良い友人で、いつも僕を信じてくれた人の一人です。

その後、クリスから「Pilgrimのパリのショールームで展示をしないか」と声をかけてもらいました。僕はそのプロジェクトを、ほとんどレジデンシーのように捉えていました。彼は僕に、何をしてもいいという自由を与えてくれたんです。そのとき、〈Pilgrim Surf+Supply〉のジャパンディレクターのタカとチームのみんなにも出会いました。

友人たちとパリを訪れ、初めて彼らに会えたことは、魔法のような体験でした。そこには優しさと開かれた空気があったんです。Pilgrimには、いつも良いバイブスを感じています。ただ服を売る場所ではなく、人が人を大切にしている、まるで家族のような場所なんです。

そのときタカが、「もし日本に来ることがあったら連絡して」と言ってくれていました。だから日本へ来ることが決まったとき、渋谷の店舗で展示ができないか相談してみたんです。彼は快く受け入れてくれました。

そこからは自然なコラボレーションでした。

僕はタカに、「僕の作品を見て、何か引っかかるものがあれば教えてほしい」と伝えました。時間をかけて僕の作品を見てもらった中で、とくに『Rise Up』の作品に強く反応してくれたんです。彼はアメリカで何が起こっているかを理解していましたし、その作品が持つメッセージに共感してくれました。

ー『Rise Up』について

『Rise Up』は、日々の問いから生まれました。

僕たちは、どうやってこの時代を生き抜いていくのか。もちろんそれは、政治的に参加することや投票すること、抗議の声を上げることを意味する場合もあります。でも、それは人生のほんの一部にすぎません。

この作品は、自分が信じるものを守り続けること、そして日々立ち上がり続けることについての作品です。ただし、それは必ずしも明確に政治的な行動である必要はありません。時には、ただそこにいること。時には、ただ存在し続けることだけが、自分にできるすべてであることもあります。

日々の暮らしの中で、僕たちはどうやって前に進んでいくのか。誰かが「人々のため」という名目で誰かが国を壊そうとしていることを知りながら、どうやって生きていくのか。平和を信じる人たちは、お金がすべての基準になっている世界で、どうやって存在していけばいいのか。

そんなことをずっと考えていました。

人は、大きな苦しみの中で力のある作品を生み出すことがあります。でも僕は、「苦しい時代だから作品が作れる」と言いたいわけではありません。ただ、自分の周囲で起きていることに反応しているだけなんです。

僕は毎朝起きると、美しさとユーモアについて考えます。ユーモアもまた、とても大切なものです。時には、僕たちから笑うことや、友人と過ごすことの喜びまでも奪おうとする力があるように感じることがあります。

今回の展示にある作品の多くは、破壊ではなく、この世界の美しさを讃えるものです。

そこにあるのは、前へ進む方法を探すこと。道端に落ちているゴミのかけらでも、自分にインスピレーションを与えてくれるアーティストでも、音楽でも、文化でもいい。あらゆるものの中に美しさを見出そうとしているんです。

たとえ作品が、誰かにとって希望の灯台のようなものになったり、「生き続けて、動き続けて」と語りかけるものとして受け取るだけだとしても、それには意味があると思っています。どれほど暗く感じられるときでも、僕たちは何らかの形でこれを乗り越えていくはずです。

僕にとって、混沌の中に美しさとユーモアを見つけることは、ずっと変わらない生き方なんです。

1984年に高校を卒業し、1989年にキース・ヘリング(Keith Haring)に出会った頃、彼はすでにHIV陽性でした。デヴィッド・ヴォイナロヴィッチ(David Wojnarowicz)をはじめ、ほかの多くのアーティストたちも、当時は事実上の死の宣告ともいえる状況の中で生きていました。

キース ヘリングとビル

キース・ヘリングとビル

だからこそ、できることは、できるうちにすべてやるしかなかったんです。

それでも人は、それぞれのやり方で前に進み、自分の道を見つけていく。そのことに僕は大きな喜びを感じます。うまくいく人もいれば、そうではない人もいる。でも、いつかそれぞれが自分なりの答えを見つけられることを願っています。

そして、避けることのできない終わりを迎えたとき、誰かが持ち帰れる何かを残せていたら。その中に少しでも優しさを見出してもらえたら嬉しいですね。

Profile

Bill Thelen

Bill Thelen(ビル・セレン)

アメリカを拠点に活動するアーティスト。ドローイング、刺繍、インスタレーション、ジンなど多様なメディウムを横断し、社会的な構造や個人の在り方をテーマに作品を発表している。現在はノースカロライナ州ローリー在住。

Instagram:@withdrawingroomnc

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